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September 20, 2004
コピーされ、共有されるということ
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そういえば、
私が中学生のときに作ったウェブページは、ホスティング先が無くなったり、
アドレスが変わったりしたものの、
いまだにコピーされて このドメインの下にある.
それどころか、様々なスポーツに関係するサイトからリンクされているために
そのコピーとリンクが繰り返され、存在が増殖され続ける.薄まることなくコピーされる.
それと同時に、私の名前や組織の名前を 少し検索してみても、
自分が作ったもの以外のページで、見られることも多い.
そう考えると、その流行が終わるか、質が劣っているか しない限り、
いつまでも人に受け継がれてコピーされて行くのかもしれない.
過去の歴史を見ても、本当にすばらしいものは 語り継がれ、複製され、
保存され続けている.絵画などの美術品など・・・.
しかし、やはりそれだけの価値があるものは間違いないが、それ以上に
運があったもの(複製・保存する技術を持ち得る金持ちがその価値を見出していた場合)
であったものだけに叶えられていたのかもしれない.
その点、原本がデジタルデータで創出される インターネット上に蓄積された
情報、知識は 今や技術で保存されるというよりも、
人々の関心と人々の価値観に左右されているようだ.
「物財」の希少性に対応する、「情報財」の価値についての論は
今まで多く語られているものでも理解できるが
腑に落ちないな、と感じ続けていた.
この現状が、何か鍵をもたらすような気がしている・・・.
思いつき、書きなぐりメモになってしまった.
(第一印象ではインターネットって、運や経済力に左右されない、
才能の表現と蓄積{人の功績を残しやすくなっている}を可能にするんだな、
なんて暢気なことをこのエントリーの結論にしようと思っていたが、
価値の捉え方自体に目を向けたほうが面白そうだ.)
投稿者 Rie KAWANO : 12:39 AM
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