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January 28, 2004

傷を舐め合う集いの必要性はいかに

 今回の文章は、大学講義の中で書いたレポートに加筆修正して、ビジネスに主眼を置いた文章にしたものである.(文章引用が必須条件のため 多少くどいが)


 ブルームズベリー・グループという集団のことを知っている人たちはどのくらいいるだろうか?20世紀初めに活躍した、英国の知識人・文化人が自発的に集まり、互いの意見を交換し合っていたという、イギリス文学史では有名な集まりだそうだ.
 彼らの中には、あの有名な経済学者ケインズも居り、文学世界では著名な、EMフォスター、バージニアウルフ、リットンストレイチー、バートランドラッセル、DHロレンスなどがその主要メンバーであった.


 私自身、思想的な側面で何かを論じるというのは、何か実感がわかない.これまで完全に論理的な思考だけに拘り続けていたのもあって、何か自然社会的なものに対して「~~を論じる」という概念自体に実感を持てないまま、何ヶ月も過ぎてしまった.
 言い訳に過ぎないが、今回は私が私なりに、私の持っている視点でブルームズベリーグループを捉えてみようと考えている.

 この学校に入学してから3年経つが、18歳までの田舎暮らしだった頃と違うのは、たくさんの同じ行動をしている人たちと知り合い、そして語り合う機会が増えたことであった.同じ行動とは、私の場合は「起業」という活動を同じくしている人たちであるわけだが、学内外を問わずたくさんの人々と、仕事についてだけでなく、人生のあり方、国、そして世界に関する動向にいたるまで語り合う機会は少なくない.
 そう考えたとき、今回この講義のターゲットとなっていたブルームズベリーグループの「そのグループのあり方」に興味を持ち、その根底にある個々人の感情がどのようなものなのかを考えてみることにした.


 ブルームズベリーグループ、彼らは、満たされ過ぎているが故の傷を舐め合う集いなのだろうか.これが近頃の自分の経験を踏まえながらブルームズベリーグループに対して浮かんだ問いである.


 経済学者として有名なケインズは、配布資料「第39章 若き日の信条」にて、ブルームズベリーグループでの論議への感想を記述している.

―――すなわち、「たとえわれわれは、知覚ある存在のごとく共同社会について語り、またそれらの社会が、幸福と悲惨、願望、利害と情念を持つとみなすにしても、現実に存在し、あるいは感じるものは、個人をおいて他にはないのである」という金言は決して忘れてはならぬものではあるが、それにしてもわれわれ個人に特有の個人主義はあまりにも行きすぎであった。
 そうして、歳月が次第に過ぎて1914年が近付くにつれて、今から思うと、人間の心についてのわれわれの考えが、誤りというだけでなく、その軽薄さ、皮相さ加減がいっそう明らかになったようである。(p.449 line.6-11)

 ケインズは、反戦主義のブルームズベリーグループに居ながらも、戦争開始後は英国の大蔵省に勤め貢献した.グループ内のメンバーの多くは、後に述べるラッセルと同様、「個人」の個人的な幸福追求を妨げるものとして戦争を捉え、一環した知性・芸術至上主義であったが、先のケインズの一説にあるように、彼はその「偏りすぎた個人主義思想」に反省の色を見せている.その結果が国への貢献であったのかもしれない.
 本職として、国家単位での思考を繰り返すケインズが、ミクロの限りである人間一人一人の感情に主眼を置き、主観的観測を述べる.そのようなまるで相反する2つの視点からの考察には、一貫性をあまり感じられるものがない.

 バートランド・ラッセルは著書『自伝的回想』の「幸福への道」の章にて、人間がいかに生きるべきか、幸福とは何ぞやと論じている.
 幸福の物質的条件、つまり健康と十分な収入を持ちながら、ひどく不幸な多くの人間がいる。―――人々はある永遠の目標を自分に課し、それの助けとならないあらゆる衝動を抑制する。(p.230 line.4-13)

 また、こうとも書いている.
―――活動は願望した目的に明らかに向かっており、それ自身衝動に反しないときに快適である。犬は完全に疲れきってしまうまで、兎を追いかけるだろうが、その間ずっと幸福だろう。しかし犬をふみ車に乗せて半時間後によい食事を与えるなら、犬は自然の活動に従っていたのではなかったろうから、食物を食べるまで幸福ではないだろう。われわれの時代の困難の一つは、複雑な近代社会では、なすべきことのほとんどすべてが狩猟の自然さを持たないことである。その結果、技術的に進歩した社会では、大抵の人が彼らの幸福を、生計を立てていくための仕事の外に見出さなければならない。(p.231 line.10-15)

 よく考えてみても、ラッセル自身が「知的労働者階級」の一人であり、なんとも自然の姿からかけ離れた仕事を行っている一人であろう.そんな彼が、まるで自分を差し置いたかのような記述ではあるが、自身をも含む記述をしていたとしたら、これは「エリート意識」の限界を嘆いているのだとも取れる.
 彼にとって、生計を立てていくための仕事以外での幸せは、人間の情愛や芸術的、知識的活動に転化していたのだろうが、結局それも自然的な行動ではない.彼自身の、彼自身がどうにもできない事実を皮肉っているようにすら見える.

 D・H・ロレンスは、著書『現代人は愛しうるか 黙示録論』の中で、23章にて自身の思想とも言えるべき結論的な論述を見せている.
 このようにして、私の個人主義とは所詮一場の迷夢に終る。私は大いなる全体の一部であって、そこから逃れることなど絶対にできないのだ。だが、その結合を否定し、断ち切り、そして断片となることはできる。が、そのとき私の存在はまったく惨めなものとして化し去るのだ。(p.180 line.9-11)

 ロレンスは、個人主義であることに対する自虐的な思想として、すべての人間が国家と言う大きな概念の上で成り立ち、その1パーツでしかないことを半ば諦めのごとく語っている.


 反戦主義であり、政治に対し無関心であるブルームズベリーグループ.しかし、ケインズは紛れもなく、マクロ経済という国家規模での学問を探究し、そして国家に協力している.ケインズ以外のグループメンバーの多くも反戦主義という名の政治活動をしているに過ぎない.ロレンスの著作に現れているように、言わば、自身の主体的活動(それも世間から認知され、尊く見られる成功事業)に動揺を感じさせる記述が多い.
 彼らブルームズベリーグループは、多くの文献で説明されているように「エリート」であり、尚且つ歴史的に振り返っても成功者、文化人である.成功者であるが故の苦悩.周囲からの評価と自身に対する評価の相違.自責と自虐的自己追及.「エリートが故」の思想だと感じる.


 遡って、自身が体験した「起業家」との対談であるが、(まだ成功か失敗かも分からないような大したことのない集まりと、偉大なるブルームズベリーグループと比較するのは、非常に申し訳ないが)彼らとの語り合いの中での主題は多岐に渡るが、結局のところ根底には「世間の評価と自己評価とのギャップ」に対する困惑であることが多い.

「起業家」と呼ばれる人々は、さまざまなマスメディアに「善者」として晒されることが多い.いわゆる今流行の「フリーター」と呼ばれる人たちと比較して、自分よりも一回りも二回りも上の年齢である団塊世代から評価される.
 戦争と国家がおおよその社会的思想を抑制していた中、その対極としての個人尊重と芸術性や知性が成り立っていたブルームズベリーグループと比較すれば、今の時代は、不況による倒産が相次ぐビジネス業界と高等教育の進んだ社会の中で、学生の身分でありながらビジネスに取り組む行為自体が評価されているに過ぎない.
 ただ単に「したいことをする」ことから始まった「起業家」であるのに対し、同じように好きなことを追っている「フリーター」と何が違うと言うのであろうか.善者的に扱われることが私生活までも侵食され、学生として大学に居ても周囲の学生から特別扱いを受け、公の場に出れば全能かのような評価を受ける.

 その評価から逃れるかのようにして、「起業家仲間」は、時に自己を差し置いて社会を嘆き、自分たちが「金儲け」に必死になっているのではないことを 必死になって自分たちに言い聞かせている気がする.

 ケインズは、自分の作り上げた社会的なプロダクトが、憎むべき国家の手助けをしていることに動揺している記述も見せている.ロレンスは、自らの個人的価値を信じたいがその一方国家と言う単位の前ではあまりにも無力であることを苦悩している.ラッセルは、人が思い抱く情愛や芸術に対する思いが、結局のところ不自然な社会の中で与えられた唯一の選択肢であるかのように嘆いている.
 彼らの思想は、よくよく見てみると 意外と異なっており、時には対立するものもある.しかし、その彼らが集まることによって、争いだけでない何かが生まれていたことは確かなようである.それは自分たちの社会的評価から逃れ、同じように自分を受け入れられる安堵感なのか.

 このように事細かには異なった思想を持つ者たちが集まることで、異常とも思える社会に対する大きな力を持った例は数多いと思う.このような例として、江戸末期に至る日本の維新家達を思い浮かべる.
 明治維新に主体的に動いた者の多くは、それが各々異なった思想を持っており、異なった理想を抱いていた.しかしながら、すべての力を結集しなくては、まず現状を打破することもできないと言い聞かせ、まとめ上げたのが坂本龍馬であろう.朝廷権力回帰側、旧幕府支援側、それぞれ異なった理想社会を抱いていたはずだが、少数が争うことよりもまとまり力をあわせ、まず現状を止めさせる という大きな力になったのは、人間の思想から人・社会を動かすために大切な要素のうちの一つであるように思う.

 そう考えると、あれほどまでも大きな社会革命には至っていないが、今回題材となったブルームズベリーグループも 自己還元の意味では大きな力を発揮していたのではないかと思うのだ.それはわ現代の「起業家の集まり」も同様に感じている.


 E・M・フォースターは著書『インドへの道』の有名な最後で、こう記述している.
「そうしたら」相手を半ばキスしながら結論を下した、「あなたと私は友人になれるだろう」
「なぜいま友達になれないのかね?」―――(p.283 下段 line.11-14)

『インドへの道』は、全般インド独立にかかるまでの英国支配による、「差別心」を題材に扱ったものであるが、その社会思想や環境の差異によって人間の思考の限界が、人間関係をも支配してしまうという嘆きにも近い考えは、ただ人種的差別に拘らずどこにでも存在することをあいまいにしながらも示唆しているように思う.
 彼ら、社会的な成功者は、社会的に評価され持ち上げられる.しかしその心底で、「評価される側」と「評価する側」における差異も感じていたのではないだろうか.彼らブルームズベリーグループのメンバーは、紛れもなく「評価される側」である.人から半ば全能のように見られ、評価される立場にある彼らの苦悩は、「評価する側」には分かるわけのない気持ちであり、唯一理解できるのが同じように「評価される側」に経ったものだけである という考えの元にあるのではないのか.それが彼らを集め、語り合わせる根底的な主題なのではないだろうか.

 見られ方や、立って居る立場の違う者同士が、決して理解し合えない領域.悲しくも存在する現実.それらを共有できるのは、違う目的や活動領域に居ながらも共通した感情を持ったグループメンバーだったのではないか.


 再び遡って、自身の仲間との集まりを考えてみることにする.われわれも周囲から自分が許容できる以上の評価を受けることをいとましく、諦めを感じながらも、やはりどこかで「別なもの」と割り切る上で それらの人たちを否定することで存在を確認し合っている節があるように思う.冷静になって捉えてみれば、非常におこがましい言動であるのは重々承知の上だが、なぜかあの場ではそれが共通認識のように理解し合える不思議な状況なのである.
 先日、第三者からの取材として、自分達の仲間で「仲間」を感じられるのはいつか、という問いをされたことがある.そのとき私は「あれは馬鹿だよね」「そうそう、そうだよね」と阿吽の呼吸で話が通じるときにそう思う、と答えてしまったものだった.自分の価値観が何の説明なく受け入れられる人たちに出会うと、その話題ももっと大きな社会や世界という広がりまでに達する.それとともに、相手を「賢い」と感じてしまう.これが大きな誤解であり、自身の惨めな高慢さの象徴でしかないのは、冷静に考えたら分かることなのではあるが、その場では通じてしまう.人を馬鹿にするような自分達が一番馬鹿であるのは分かりきっていることなのに.

 よく、ビジネスの世界で「経営者は自社が小さなうちは、社員と仕事が終った後に飲みに行くことで夢を語り合ったり、お互いを励ましあったりできるが、会社が大きくなるにつれて、特定の部下だけを連れていくことが不可能となり、溝が生じ、結局のところ 他社の経営者としか食事できなくなる」ということをジンクス的に言われ続けている.
 人は、どこまでも自分の思考の限界によって壁を作り、差別しながらしか安心できないものなのかもしれない.


 さて、話をブルームズベリーグループに戻すとする.「成功者ゆえの苦悩」を持ったエリート集団は、何をきっかけにして集まり、それを可能としたのだろうか.
 彼らは総じて、芸術文化的なものや人間の自然な姿を重視し、その成立を難しくしている社会や国家に対して問い続け、時にはその反発心を公に表している.だがしかし、その根底には、その限界を認める思想を“個人として”は表明していることが多い.そのほとんど懺悔に近いような文章は、単独執筆の書物のときにしか表れず、グループ内でも1対1の対立時にしか表現されていない.それと相対するように、グループでの話し合いは前述の引用文にあるように、ある意味「無難で正しい」意見の交換ばかりである.偽善的ともいえるその一つ一つの意見は、実に差別的である.
 みな、自分の本業をまるで正当化するような言い分をぶつけ合い、盛り上がる.しかし、単独になると、それを「意味のないもの」とする気持ちを出している.自己の表面にまたがる偽善的思考をお互いに癒すために集まるのか.

 人間誰しも、他人・他集団を差別化することで、美点を見出し生きていっている.それはどんなにその人間が優秀で博愛であっても持っている、人間が逃れられない「罪」なのかも知れない.しかしながら、その「エリート集団」と呼ばれる人たちは、社会的なその地位ゆえ、公にして等身大のままの姿を晒しだすことには大きなリスクを負う.そういったときに心の拠りどころとなるのは、同じ地位と評価を受けているもの同士、と言うことになるのかもしれない.結局のところ、人間の思考の限界とも言える汚い考えは、その地位や名誉に追われれば追われる思考を持つほど、覆い隠され、より心の奥へと閉じ込められる.
 言わば、傷の舐めあいとも言えそうなこの場所は、果たして彼らのためになっていたのだろうか.今振り返ってみてみれば、彼らが彼ら同士のことを書いているその一文一文が、後悔に染まった意味のないものに見えてくる.
 結局彼らの集まりは(現代の起業家仲間もそうなのだろうが)、差別をしながらしか過ごしていない.限界や弱さを認めることなく過ごすがゆえ、その限界や弱さを表出させる場を失っている.限られた同族意識の壁の中でだけ、出し合えるその弱さも、やがて彼ら同士の意見の相違によって、その壁も意味を無くし、また新たな差別化という壁を求めて、見つかるまで閉じ込めるしかなくなるのだ.所詮、一過性の産物でしかない.

 エリート意識など自身が限界を作っているだけの話であるが、周囲からのプレッシャーを考えると、それを吐き出せるだけの拠りどころがあることで、パフォーマンスを向上させるのかもしれない.
 結果として自分達も同じような行動をしているわけで、ブルームズベリーグループの行動を私は一概に批判できない.そう考えると、規模や影響力、歴史的な価値の違いはあれど、大したことのないものなのかもしれない.大したことでもないし、むしろ惨めなものでしかないかもしれないが、その当事者にとって効果があると思えるものであれば、それでいいのではないか、とも思う.四六時中その言動を注目されている中で、唯一の開放される場所が、そこなのであればそれはそれで必要な場所であり、必然的なものなのかもしれない.その意味で私は、このブルームズベリーグループを、ただの傷を舐めあうための集いとしか捉えない.
 ただし、約1世紀過ぎたこの現在でも、彼らの集いを尊いものとして扱う世界の風潮を見ることができたとしたら、彼らはどう語り合うだろうか.またしても、そんな世間を嘆き、悲しむ存在としての集いを開いてしまうのであろうか.

投稿者 Rie KAWANO : 02:27 AM | コメント (0) | トラックバック (1)
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